三池往還とは

三池往還とは (三池街道)

概要

三池往還は、豊臣秀吉が九州を平定した天正15年(1587)から熊本城主の加藤清正により整備されてきた軍事上、経済上の重要な道路です。

熊本城下から北に 12km上った「豊前街道」(薩摩街道)の味取新町(みとりしんまち)(植木町)の宿場から分伎して木葉・高瀬町(玉名市)・金山・府本・岩本を経由して、筑後国三池方面に至る道で
古くは「高瀬街道」とも呼ばれ、江戸初期に街道制確定後は「三池街道」と呼ばれ往来者も増えました。

明治10年(1877)には政府軍と西郷隆盛の率いる薩摩軍との「西南戦争」の激戦の舞台となった場所でもあります。


味取新町(みとりしんまち):熊本市北区

味取町は豊前街道の門前町・宿町として栄え、細川忠利入国の時、正式の町となっいた。
しかし元禄時代には味取町から分かれ南方面に味取新町が造られ、豊前街道の参勤交代で薩摩藩、人吉藩の宿舎としても利用され 100軒余の旅籠で賑わった町です。
ここの豊前街道の味取新町からは、西に分伎して三池街道が高瀬や三池方面に延びています。


田原坂(たばるざか):熊本市北区

田原坂は標高差は僅か80mの一の坂、二の坂、三の坂と頂きまで1.5Kmの木葉川沿いに曲がりくねった山道です。
西南戦争は明治10年(1877)、西郷隆盛の率いる鹿児島士族が起こした反政府運動で、日本最後の内戦で官軍6923名、薩軍7186名の戦死者を出しました。
明治10年2月、熊本城を包囲した薩摩軍に対し、高瀬に集結した政府軍は救援のため、唯一大砲が運べる田原坂を越え、熊本城をめざして進軍した。
田原坂の戦いは同年、3月4日から20日までの17日間に及び、この間の7日間は、みぞれ交じりの、雨又雨の日の中で合計10万の将兵が激闘し、死傷者3万5000名、死者はそれぞれ3,000人以上が出しました。
結果は物量に勝る政府軍が勝利、破れた薩摩軍は、撤退を重ねることとなり9月24日西郷隆盛らも鹿児島の城山で全滅し終結しました。


木葉(このは):玉名郡玉東町

植木との境を過ぎると旧木葉村です。
西南戦争で官軍の参謀山県有朋が本営を設けた所です。官軍の病院が置かれたところで、木葉の三開業医が軍医を援けたことで元老院議官の佐野常民(さのつねたみ)や大給恒(おぎゅうわたる)は有栖川親王に許可をもらい博愛社が結成され、木葉の徳成寺などに救護所を開き、赤十字社の精神に基づき、敵味方の区別なく負傷兵を収容し手当を行いました。
したがって、日本の赤十字社は、玉東町木葉でそのスタートを切ったことになります。
街道筋には木の葉猿窯元があり、見猿、言わ猿、聞か猿の3匹猿は「悪いことは見ない、言わない、聞かない」という昔からの戒めがあり、1300年も昔から作られている。


高瀬(たかせ):玉名市

明治初期以前は橋は無く 菊池川(川幅約100m)を舟で渡り、高瀬側に着岸し、中州を通り、裏川にかかる大小の石橋を通って高瀬の街へ行っていました。
玉名温泉はかって立願時温泉と呼ばれ、1300年もの間こんこんと湧き続けて保養地として利用されてきました。

江戸時代には肥後藩の菊池川流域の米の一大集積地でした。
高瀬の御蔵から積み出された「高瀬米」は大坂の堂島に運ばれ米相場の基準となる程人気があり、繁栄した町です。
裏川の右岸は商家町で、その面影が残っています。荷車が落ちないように片側に車輪用の石溝がある小崎橋など工夫をこらした当時の石橋、石垣や船着場が残っています。


金山(かなやま):荒尾市金山

金山原は戦国時代の武将大野一族が佐賀の龍造寺軍により壊滅させられた古戦場跡です。
江戸時代には鉄の産地として繁栄し、生産された鉄は有明海から舟で各地に運ばれたでしょう。
高塚山には、鉄の輸送船の安全を祈った金毘羅さんがあります。
街道は金山交差点を国道208号から124号線にほぼ沿って北方面に延びています。


府本(ふもと):荒尾市府本

江戸時代初期には街道の往来者も増えて、享保元年(1714)府本町は細川藩から、宿場町として許可されました。
それを記念する宿町御免の碑が寛保3年(1743)3月に熊野宮境内に建てられています。
豪商荒木家の別邸は御茶屋として藩主の休憩所に利用されていました。
街道に面して現存する天保2年(1831) 6月14日に再建された御成門は御成間の入口につくられた門扉で細川家の九曜紋入りの棟瓦と九曜紋を浮彫りにした板の欄間を有する。
御成間は昭和初期に近くの田中春記宅前に再建され利用されている。
島原藩主は参勤交代の時、府本の荒木氏邸で休息の後、三池新町を経て筑後またはここから分伎した長洲往還を通り長洲港に向かわれた。


岩本番所:荒尾市上井出

肥後と三池の国境(くにざかい)です。
肥後細川藩高瀬奉行所の岩本番所があり、旅人の通行手形の改め、キリスト教の取り締まり、物産の流出、農民の逃亡などを監視したところでもあります。
岩本番所には、内野・桜井の両家が役人をしていました。今も内野家の子孫の方が、そこに住んでいます。
石橋が架かる以前は旅人は歩渡りか舟で関川(諏訪川)を渡っていました。
明治元年(1868)に、国境はなくなり、番所も廃止され、自由に通行できるようになりました。
岩本橋は、「永青文庫」の「町在」の古文書によると幕末の文久3年(1863)に架けられた事が解っている。大牟田檪野の石を使用し、石工は皇居の二重橋を築造した、肥後種山(熊本県八代市東洋町)出身の橋本勘五郎だと推定されている。
関川に架けられた石造りの眼鏡橋で欄干の外側には菊の花の紋章が刻まれています。全長32.7m、幅4m(道路3.4m)、高さ7.4mあります。
二連のアーチ(めがね橋)の直径は各々12.5m、12.6mあります。
この先、街道は番所の塀を左に沿って通るか、現在の県道の県境から竹林道を通ると、三池領の三池街道になります。