親鸞聖人のご生涯
年 号 | 西 暦 | ご年齢 | 出 来 事 |
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承安3 | 1173 | 4 | 京都、日野にてご生誕 |
安元2 | 1176 | 4 | お父さまと別離 |
治承4 | 1180 | 8 | お母さまご逝去 |
養和1 | 1181 | 9 | 出家得度 |
建久2 | 1191 | 19 | 磯長の夢告 |
建久9 | 1198 | 26 | 赤山明神での女性との出会い |
正治2 | 1200 | 28 | 大乗院の夢告 |
建仁1 | 1201 | 29 | 比叡下山 |
建仁1 | 1201 | 29 | 六角堂参籠、救世観音の夢告 |
建仁1 | 1201 | 29 | 聖覚法印と出会い、法然上人のもとへ |
建仁1 | 1201 | 29 | 信心決定 |
建仁3 | 1203 | 31 | 肉食妻帯 |
元久2 | 1205 | 33 | 『選択本願念仏集』の書写を許される |
建永1 | 1206 | 34 | 三大諍論 |
承元1 | 1207 | 35 | 承元の法難 |
建保2 | 1214 | 42 | 上野国佐貫で『浄土三部経』読誦を思い立たれるが、すぐ中止、常陸に赴かれる |
建保5 | 1217 | 45 | 日野左衛門済度 |
建保6 | 1218 | 46 | 田植え歌 |
承久3 | 1221 | 49 | 弁円済度 |
寛喜3 | 1231 | 59 | 報いきれない仏恩に苦しまれ、高熱で寝込まれる |
仁治2 | 1241 | 69 | 平太郎、熊野権現で霊夢を見る |
康元1 | 1256 | 84 | 善鸞義絶 |
康元1 | 1256 | 84 | 蓮位房、「聖人は阿弥陀如来のご化身」という霊夢を見る |
弘長2 | 1262 | 90 | ご往生 |
- ご誕生
平安時代も終わりを迎えようとした頃、京都の南、日野の里でご誕生されました。
幼名は松若丸(まつわかまる)。
父は公家の日野有範。
武士が台頭し、源氏と平氏の争乱のなか、疫病や飢饉、暴風や大地震が続発する混迷した時代でした。
- 道を求めて
9歳の春、出家得度して、日本の仏教の根本道場・比叡山に上りました。
20年もの間、命がけの修行を積みましたが、すべての人を救う仏の覚りにいたることはできませんでした。
法然さまとの出会い
苦悩のなか29歳で山を下り、お念仏による救いを説く法然さまを訪ねました。
そして阿弥陀仏の「必ず救う」という願い(ご本願)を素直に受けとり、念仏申す以外に救われる道はないと納得されたのでした。
- お念仏を越後へ
お念仏の教えが広まるにつれ、仏教諸宗の反発が強まり、朝廷の命令で弾圧が始まりました。法然さまは土佐へ、親鸞さまは越後へ流罪となりました。
不当な弾圧でしたが、越後の人々にお念仏を伝える大切な仏縁と受け止められました。
- 家族とともにご縁をよろこぶ
恵信尼(えしんに)さまと結婚して子を授かりました。
また田を耕す方、漁をされる方と一緒に生活をされました。
在俗(ざいぞく)の生活にありながら、お念仏を称え、ご縁をよろこぶ生活を通して、誰もが歩める「真の仏道」を示されました。
- 関東での布教
罪を赦(ゆる)された親鸞さまは42歳の頃、関東に赴きました。
念仏弾圧が断続的に続くなど、ご苦労は絶えませんでしたが、たくさんの方々にお念仏を伝えられました。
浄土真宗のみ教えのエッセンスが記された『正信偈(しょうしんげ)』は、関東の地で著されたものです。
- 帰洛
63歳頃、京都へ帰り、たくさんの書物を著されました。
越後や関東での経験から、多くの方がみ教えをよろこべるよう、仮名交じりで書物を著し、関東の門弟には手紙を書いて、丁寧にお導きくださいました。
- ご往生
誰もが救われるお念仏のみ教えを示された親鸞さまは、90歳でご往生されました。
親鸞さまのお導きは、遠く750年の時を超え、今も受け継がれています。
築地本願寺は、親鸞さまが歩まれたお念仏のみ教えを伝えるお寺です。