+日本赤十字社発祥の地
- 徳成寺本堂は ・・・
「西南の役」当時、野戦病院(大包帯所)が置かれ、 敵味方分け隔てなく負傷した人々を救護・療養したところです。
昼夜献身的に治療する人々の姿に感銘を受けた元老院議官 佐野常民氏が、ヨーロッパにおける赤十字活動を参考に「博愛社」を創立し、のちに「日本赤十字社」に発展していきました。
徳成寺本堂は「文化庁」によりますと、
当時、大包帯所に使用された現存している唯一の建造物で “日本での赤十字活動の始まり” といわれています。
このご縁により、熊本県また玉東町全体として 「+日本赤十字発祥の地」といわれています。
明治10年(1877)の西南戦争の時には、ここ木葉の地に政府軍の基地が置かれていたため、徳成寺は政府軍の大包帯所(兵士の治療を行うところ)として利用されていました。
近くを流れる川は、兵士の食糧を仕込む米とぎの白色と、兵士の治療に使った包帯を洗った赤色に染まったという言い伝えが残っています。
大包帯所では、弾を抜く、消毒、骨をつぐといった応急的な手当てが行われました。
徳成寺の奥の木葉山山麓には、亡くなった兵士を葬った宇蘇浦官軍墓地があります。
当初、戦死者は高月官軍墓地に葬られていましたが、兵士が通行する三池往還に近すぎて兵士の士気が落ちる為、少し奥まったこの地に葬られることになったそうです。
官軍病院阯・日赤発祥之地
徳成寺の山道右脇に「官軍病院阯」および「日赤発祥之地」と刻まれた石碑が建っています。
この「官軍病院阯」の石碑は「宇蘇浦官軍墓地」の墓石とほぼ同時期に建立されたといわれています。
徳成寺の位置関係は、
旧三池往還より少し奥まった木葉山の麓に位置しています。
当時の上木葉本営から700m、木葉本営まで400m、前線の置かれた堺木まで1500m。
玉東町には これらの他にも「官軍墓地」や「戦線の遺跡」があるなど、おとなりの熊本市北区植木町と共に、数多くの西南の役にゆかりのある名所、旧跡が点在しています。
日赤発祥之地 : 石碑文
田原坂附近戰蹟案内 書籍(一部抜粋)
国立国会図書館に同じ書物が所蔵されています
発 行:帝國在鄕軍人會木葉分會
目 次
第1編
勅 語
1、軍人に賜りたる勅語
1、在鄕軍人賜りたる勅語
1、教育勅語
1、戊申詔書
1、詔書及謹解
第2編
(1)田原坂紀念碑 有栖川親王
(2)谷村計介 チュウクンアイコク 軍人龜鑑
(3)官薩斥候衝突の地
(4)河原林少尉戰死の地 勝敗は時の運なり軍旗を肌に着けよ
(5)官軍散兵壕の址
(6)西南戰址千本櫻 乃木將軍自刄せんとせし所及殉死の胚胎
(7)熊本隊合議所
(8)彼我両軍抜刀隊編制
(9)七本柿木墓臺場
(10)田原の激戰及陥落の原因 南洲翁の卓見
(11)薩軍戰死者合葬の墓 鬼 哭 愁 々
(12)官軍胸壁の址
(13)官軍陣屋の址 此の凹地 官軍砲陣の地 此の上
(14)聖上皇后陛下の御慰問使 皇 恩 優 渥
(15)薩軍散兵線の址
(16)官軍散兵線の址 吉松大隊長一死君國に殉するの時來たる戰死の後は正装して似て葬れ
(17) 木葉徳成寺の假繃帶所 酸鼻る情筆紙の盡す所にあらず
(18)乃木軍殿戰の跡 薩軍砲陣の趾
(19)官軍砲陣の趾 山縣大山野津の諸將自ら指揮す
(20)官軍本營出張地の址
(21)官軍砲陣の址
(22)官軍塹壕の址
(23)右翼二俣方面の劇戰 屍山血河の慘憺たる光景
(24)薩軍本營の址
(25) 薩軍本營の址
(26)熊本隊本營の址
(27)熊本隊防守の址
(28)篠原國幹戰死の地 國幹の死は薩軍不振の先兆
(29)木葉宇都見神社 歸リ來りて河水に笑って刀を洗ふ
(30)明治10年戦役紀念館
(31)烈婦鳥羽すゝ子
(32)木葉村官軍墳墓地 官軍龜鑑贈従五位谷村計介の墓
(17) 木葉徳成寺の假繃帶所(このはとくじょうじのかりほうたいじょ)
← 一部抜粋 48頁(17)(原本) :クリックで拡大されます
一銭銅貨
大変な状況であったにもかかわらず「西南の役」当時も貴重なお供物やお賽銭などのお布施があがりました。
確認しづらいですが、西南の役当時:明治10年の年号が刻まれている「一銭銅貨」で、徳成寺で保管されているものです。
井戸の命水
現在も徳成寺境内地に残るこの井戸です。
包帯を洗い、米を研ぎ、手当に欠かせない
「命を救う水」だったと伝承されています。
菊の御紋入りの御文章箱
負傷兵を敵味方なく命尊しの精神で救護に当たった皆の功績に「菊の紋章入り 御文章箱」が下附され
後の、博愛社→日本赤十字社発祥の地としてたたえられました。
宇蘇浦官軍墓地
徳成寺の東側路地を奥へ200m程度歩くと広大な墓地があります。
「宇蘇浦官軍墓地」および「明治十年之役官軍戰死者墳墓地」と刻まれた石碑が建っています。
西南の役における最大の激戦地であった田原坂および、横平山の防戦、木葉の戦いにおいて戦場の露と消えた士官25名、下士官47名、兵卒250名、軍夫13名、抜刀隊で活躍した東京警視局巡査隊64名の計399名埋葬されています。
土佐出身で木葉で亡くなった吉松秀枝少佐や、兵士の鏡といわれた谷村計介伍長の墓石も見られます。
また墓石の中には「木葉病院ニテ死亡」と刻まれたものが40基あります。
※木葉病院が、仮包帯所(徳成寺)といわれています。
西南戦争遺跡群
- 西南戦争(西南の役)は、明治10年(1877)、鹿児島士族層を中心とする不平士族が政府に反旗を翻し、南九州一帯で行われた国内最大・最後の内戦で、明治政府が近代国家として権力基盤を確立するなど日本史上、著明な戦争です。
熊本城籠城戦と田原坂の戦いは政府軍が勝利し、一連の士族の武力反乱は集結しました。
- 熊本市北区植木地区・玉東町地区は、「田原坂の戦い」の舞台となった地域です。
熊本城援軍のため南下する明治政府の官軍と、これを阻止しようとする西郷隆盛率いる薩摩軍が 2月下旬から 4月初旬にかけて激突しました。
- 徳成寺は 「西南の役」当時、野戦病院を置き、 敵味方分け隔てなく傷兵した方を収容・療養したところで、「文化庁視察団」によると、現存している唯一の建造物で、日本での赤十字活動の始まりといわれています。
このようなご縁により、熊本県また玉東町全体として 日本赤十字の発祥の地といわれています。
西南戦争遺跡群とは
徳成寺の他に、田原坂公園(熊本市北区)など11カ所となっています
- 田原坂本道(熊本市北区植木町)
- 田原坂公園(熊本市北区植木町)
- 七本官軍墓地(熊本市北区植木町)
- 七本薩軍墓地・柿木台台場跡(熊本市北区植木町)
- 吉次峠・半高山戦跡(玉東町)
- 横平山戦跡(玉東町)
- 二俣瓜生田砲台跡(玉東町)
- 髙月官軍墓地(玉東町)
- 宇蘇浦官軍墓地(玉東町)
- 正念寺(玉東町)
- 徳成寺(玉東町)
※ 西南戦争遺跡群の一部は国指定の史跡となっています。