浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派

本願寺教団は、京都の西本願寺を中心に、現在では熊本県内に466ヶ寺、全国に約12,000ヶ寺、海外では北米に61ヶ寺、ハワイに36ヶ寺、カナダに18ヶ寺、南米に59ヶ寺、その他合わせて183ヶ寺を抱える組織です。

また全国に宗門校、いわゆる本願寺直属の学校がおよそ80校あります。

龍谷大学、京都女子大など、九州で言えば九州龍谷短期大学や、佐賀龍谷高等学校などが宗門校になります。

宗祖

浄土真宗の宗祖、親鸞聖人をご紹介です。

  • 見真大師 親鸞聖人(けんしんだいし しんらんしょうにん)

ご誕生1173年5月21日(承安3年 4月 1日)
ご往生1263年1月16日(弘長2年11月28日)

親鸞聖人のご生涯  京都・日野の里で御誕生。
9歳で得度。
比叡山で20年間修行されたが、迷いや苦悩から逃れることができなかったため、 山を下り、町中でお念仏の教えに民衆と共に生きられる法然聖人に感動され、六角堂での救世観音の夢告により門弟となられました。
35歳の時、専修念仏停止によって越後に流罪となり、39歳で赦免の後、妻・恵信さまや家族とともに関東へ移り、約20年間布教を行われました。
1224年(元仁元年)に主著『顕浄土真実教行 証文類(教行信証)』を撰述される。その後、京都に帰り著述活動を行われ、1263年1月16日(弘長2年11 月28日)、90歳で示寂される。

この様に権力からの弾圧にもめげず一生涯、親鸞聖人はお念仏の教えに生き抜かれたのでした。

親鸞聖人の教え

親鸞聖人が90年のご生涯をかけて私たちに教えてくださった“み教え”には、すべての人が救われていく道が説かれています。
「他力本願」「悪人正機」「往生」の3つのキーワードで、親鸞聖人のみ教えにふれてみたいと思います。

  1. 他力本願 (たりきほんがん)
    「他力本願」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。
    浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がいわれた「他力」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、もちろん他人の力をあてにすることでもありません。また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という意味でもありません。「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺な阿弥陀如来の力を表す言葉です。
    「本願」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀如来の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われた願いのことです。この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい、「他力」といいます。
    私たち念仏者は、このような如来の本願のはたらきによる救いを、「他力本願」という言葉で聞き喜んできたのです。ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの尊さと意義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。

  2. 悪人正機 (あくにんしょうき)
    「悪人正機」とは、「悪人こそが阿弥陀如来の救いの本当のめあてである」という意味で、阿弥陀如来の慈悲のこころを表す言葉です。
    阿弥陀如来は、平等の慈悲心から、すべての生きとし生けるものに同じさとりを開かせたいという願いを発(おこ)されました。だからこそ、この慈悲のこころは、今現に迷いの中で苦しんでいるものに注がれるのです。
    ですから、「悪人正機」という言葉を聴いて、悪事を犯してもかまわないと開き直ったり、悪いことをしたほうが救われると考えるのは、誤った受けとめかたです。
    経典には、この如来の慈悲が、<病に苦しんでいる子に特に注がれる親の愛情>にたとえて説かれています。親鸞聖人は、このような阿弥陀如来の慈悲に出遇い、その慈悲が注がれているのは、他でもない煩悩に満ちあふれた自分自身であると受けとめられました。
    私たちは毎日いろいろな生き物のいのちを奪いながら生きています。また、めぐり合わせによってはどんな恐ろしいことでもしてしまいます。このような私の姿に気付かせ、同時にそのまま救い取ってくださるのが阿弥陀如来の慈悲であり、そのこころを表すのが「悪人正機」という言葉です。

  3. 往生(おうじょう)
    「往生」とは、本来、阿弥陀如来の浄土に往き生まれることです。日常的に使われるような、途中で行きづまったまま身動きが取れなくなることではありません。
    阿弥陀如来の本願には、「あらゆる人々に南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われています。浄土真宗の往生は、この阿弥陀如来の本願のはたらきによる往生です。
    親鸞聖人は、如来のはたらきにより信心を得て念仏する人は今この人生において、「必ず仏に成るべき身」(現生正定聚 げんしょうしょうじょうじゅ)となり、命終わった時には浄土に生まれて必ずさとりに至る(往生即成仏 おうじょうそくじょうぶつ)と示されています。
    私たちにとって大事なことは、この人生において如来のはたらきをうけいれること、つまり、信心を得て念仏する身にならせていただくことです。それはそのまま往生する身とならせていただくことなのです。
    阿弥陀如来の本願に気づいた人は、それぞれの人生を大切に歩むことができます。

※本願寺出版社発行「親鸞さまの教えって何?」より抜粋

親鸞聖人のご生涯

  • ご誕生
    平安時代も終わりを迎えようとした頃、京都の南、日野の里でご誕生されました。
    幼名は松若丸(まつわかまる)。
    父は公家の日野有範。
    武士が台頭し、源氏と平氏の争乱のなか、疫病や飢饉、暴風や大地震が続発する混迷した時代でした。
  • 道を求めて
    9歳の春、出家得度して、日本の仏教の根本道場・比叡山に上りました。
    20年もの間、命がけの修行を積みましたが、すべての人を救う仏の覚りにいたることはできませんでした。
    法然さまとの出会い
    苦悩のなか29歳で山を下り、お念仏による救いを説く法然さまを訪ねました。
    そして阿弥陀仏の「必ず救う」という願い(ご本願)を素直に受けとり、念仏申す以外に救われる道はないと納得されたのでした。
  • お念仏を越後へ
    お念仏の教えが広まるにつれ、仏教諸宗の反発が強まり、朝廷の命令で弾圧が始まりました。法然さまは土佐へ、親鸞さまは越後へ流罪となりました。
    不当な弾圧でしたが、越後の人々にお念仏を伝える大切な仏縁と受け止められました。
  • 家族とともにご縁をよろこぶ
    恵信尼(えしんに)さまと結婚して子を授かりました。
    また田を耕す方、漁をされる方と一緒に生活をされました。
    在俗(ざいぞく)の生活にありながら、お念仏を称え、ご縁をよろこぶ生活を通して、誰もが歩める「真の仏道」を示されました。
  • 関東での布教
    罪を赦(ゆる)された親鸞さまは42歳の頃、関東に赴きました。
    念仏弾圧が断続的に続くなど、ご苦労は絶えませんでしたが、たくさんの方々にお念仏を伝えられました。
    浄土真宗のみ教えのエッセンスが記された『正信偈(しょうしんげ)』は、関東の地で著されたものです。
  • 帰洛
    63歳頃、京都へ帰り、たくさんの書物を著されました。
    越後や関東での経験から、多くの方がみ教えをよろこべるよう、仮名交じりで書物を著し、関東の門弟には手紙を書いて、丁寧にお導きくださいました。
  • ご往生
    誰もが救われるお念仏のみ教えを示された親鸞さまは、90歳でご往生されました。
    親鸞さまのお導きは、遠く750年の時を超え、今も受け継がれています。
    築地本願寺は、親鸞さまが歩まれたお念仏のみ教えを伝えるお寺です。



ご本尊

  • 阿弥陀如来(あみだにょらい):南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)

親鸞聖人は、自らを自身の修行や努力で仏になることのできない存在であることを見抜かれ、阿弥陀さま(阿弥陀如来)の「本願」(行きとし生けるものすべてをすくいたもう慈悲の願い)に出遇うことこそ。私たちが本当にすくわれていく道だと気づかれました。
以来、親鸞聖人の教えを仰ぐ私たち浄土真宗の門信徒は、阿弥陀さまのはたらきを おすがたであらわした「絵像」や「南無阿弥陀仏」の六字のお名前であらわした「名号」をご本尊として、手を合わせ、感謝と敬いのこころをはぐくんでいます。




総本山

  • 龍谷山 本願寺(りゅうこくざん ほんがんじ)

所在地:京都市下京区堀川通花屋町下ル(位置的に西本願寺とも言われています)
TEL 075‐371‐5181 FAX 075‐371‐5241

  • 西本願寺域内地図(にしほんがんじいきないちず)
    (国の重要文化財に指定されていて国立公文書館に所蔵されています)

森 幸安が書写、収集した地図です。
絵図に記された解説によると、西本願寺の地図で今の世の中に広まっているものが少ないので、壷井氏の所蔵しているものを書写し、南隣の興正寺等を書き加えたとあります。

森 幸安は、元禄14年(1701)年京都に生まれ、後に大坂の高津に移り住み、京や大坂の町を自ら歩き、書写した地図を交合したといわれています。
また、その収集の範囲は日本各地の地図はいうに及ばず、日本全図や世界地図まで及んでいます。




浄土真宗本願寺派の教え

仏さまになるには、修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要である、とされてきました。しかし、今の私達にとって、それを毎日続けてゆくのは非常に難しいことなのではないでしょうか。

そこで、阿弥陀如来は私達のような者を救おうと誓い、浄土を建立したのです。この、阿弥陀如来の建立した浄土に生まれる道を説くのが浄土真宗の教えです。阿弥陀如来は私達のような者こそを、救いの対象にしているのだと説いてるのです。

また、浄土真宗では、「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。

自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗の念仏なのです。




おもな経典

  • 無量寿経:むりょうじゅきょう
  • 観無量寿経:かんむりょうじゅきょう
  • 阿弥陀経:あみだきょう
  • 教行信証:きょうぎょうしんしょう
  • 正信念仏偈:しょうしんねんぶつげ




浄土真宗の教章(私の歩む道)

浄土真宗の教章(私の歩む道)とは、
親鸞聖人の流れをくむものとして心に銘ずべき内容を定めたものです。
1967(昭和42)年4月に当時のご門主(勝如上人)が制定し、その後40年の時を経て、2008年、大谷光真前ご門主が新たに制定されました。
宗門に集う人々が浄土真宗の教えのもとに生活を送るうえで大切にする規範を、簡潔にあらわされたものであり、新たにご縁のできた方にご理解いただくための手引きとなっています。

浄土真宗の教章(私の歩む道) ← クリックで拡大されます



歴史

承安3年(1173)、親鸞さまは京都に生まれ9歳で得度されました。

その後20年間に亘り比叡山で修行をおつづけになり、やがて比叡山の仏教に絶望し浄土宗の宗祖法然聖人を訪ねられます。
そこで法然聖人の専修念仏の教えに感銘し入門されます。

しかし、念仏禁止令が発布され、越後に流罪。流罪先で結婚された親鸞聖人は非僧非俗(ひそうひぞく)の境地をひらき自らを「愚禿親鸞」(ぐとくしんらん)と名乗られます。
流罪が許された後、妻子を伴って関東で布教を始められます。そして元仁元年(1224)浄土真宗の根本聖典になる『教行心証』(きょうぎょうしんしょう)をご執筆、この年が立教開宗の年とされています。

晩年はご家族とともに京都へお帰りになり、90歳でご往生されるまで、盛んに執筆活動をされ、同時に関東の弟子達へ手紙で指導をつづけられました。

親鸞聖人の滅後、教団は次第に衰微していきますが、第八世蓮如上人によって再興をはたします。

そして、巨大教団へと発展したため、他宗派や大名からの弾圧がはじまります。
「天下統一」を目指す戦国武将たちの最重要課題が「一向宗」をいかにして手なずけるかということでした。

そこで織田信長は「一向宗」を徹底的に弾圧します。豊臣秀吉は現在の西本願寺の場所に本願寺を移転します。徳川家康は本願寺の東側にもう一つ本願寺を建てて勢力を二分しました。

この東側に新しくできた本願寺が東本願寺(真宗大谷派)となり、元の本願寺がいわゆる西本願寺(浄土真宗本願寺派)になったのです。

織田信長の本願寺攻略をはじめとして、時の権力者に翻弄され西本願寺と東本願寺にわかれますが、宗勢は衰えることなく、現在に至ります。




御仏壇

浄土真宗のお仏壇は、中心にご本尊の阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)、向かって右側に親鸞聖人、左側に蓮如上人の計三幅を、御安置いたします。
お仏壇は、日々を生きる私たちが、阿弥陀さまの「本願」に出遇い、そのおはたらきに気づき、手を合わせる場です。
「亡くなった人がいないから、お仏壇はまだいらない」と思っている方もいますが、あくまでも、仏法に出遇う場ですから、どの家庭にもお仏壇を置くことが大切なのです。
また、新たに家庭を持った方や、進学や仕事のため親元を離れ一人住まいをする方も、阿弥陀さまのおはたらきに感謝し、いのちのあり方をかえりみる生活を送りましょう。
スペースの限られているアパートやマンションなどにお住まいの方に適しているお仏壇や、長期出張や留学など家を離れる時に、いつでもどこでも手を合わせることができるのが携帯用の「懐中名号」です。
御本尊は、ご本山からお迎えしましょう。

お仏壇や、ご本尊は見た感じは何となく似ていても、宗派により少しずつ異なっていたりもしますので、新しくお迎えする際は必ずご相談ください。

その際の入仏式など仏事、法要も行っています。

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