本願寺の見どころ

本願寺( 西本願寺 )

京都駅烏丸口より堀川通りを15分位歩くだけで、世界遺産の一つであり文化財の宝庫と言われる西本願寺に着きます。

西本願寺には、曲線的で優雅な安土桃山文化の遺構が多く残されているのです。
境内には広く見どころが多いのにもかかわらず、観光目的ではなく浄土真宗の信仰の中心となる場所であるため、拝観料の設定はありません。
御影堂門、阿弥陀堂門などから自由に参拝でき、見て回る事も出来ます。御影堂門・阿弥陀堂門から入ると、南側に御影堂と、北側に阿弥陀堂が並びます。

西本願寺は、お守り・おみくじ・お札などもありません。阿弥陀様におすがりすれば日々の吉凶を占い、神秘的な力を頼らなくてよいとの教えによるためです。







阿弥陀堂【 国宝 】

本尊である阿弥陀如来像を安置しているところから阿弥陀堂と称し、本堂ともいわれます。
御影堂の北に位置し、単層、入母屋造、本瓦葺で、東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。中央に阿弥陀如来の御木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七高僧と、聖徳太子の影像が安置されています。
現在の阿弥陀堂は、江戸時代の宝暦10年(1760)に12年の歳月をかけて再建されたものです。

御影堂【 国宝 】

1636(寛永13)年建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事は、この御堂で行われます。
2011(平成23)年の親鸞聖人750回大遠忌法要に先立ち、10年間にわたって、約200年ぶりの大修復工事を行い、2009(平成21)年3月末に完了しました。

唐門【 国宝 】

京都の国宝三唐門の一つで桃山時代の伏見城の遺構を移したものと伝えられています。
以前は御影堂の前にあったものを元和4年(1618年)に北小路通の現在地に移設され書院への正門となっています。
金色の金具と牡丹に唐獅子、竹に虎、麒麟に孔雀など数々の繊細な彫刻が施された絢爛豪華の建築物の代表である唐門は、唐破風の四脚門で、桃山時代の代表的な建築物です。

その豪華で精巧な様を眺めていたら、時間が経つのも忘れてしまい、飽きずに一日中でも眺めていられるということでことから、別名「日暮らし門」とも呼ばれています。
まず目に飛び込むのは内側を向いた2頭の麒麟(きりん)といっても首の長い現在の「きりん」ではありません。
獅子や龍、孔雀など桃山時代の人達が豪華を連想したであろう動物達の彫刻が原色で装飾されています。
その空想上の動物、麒麟は、「キリンビール」のロゴの原画となっているそうです。
 
この門を見られるだけでも、西本願寺を訪ねる価値があるとおもいます。

飛雲閣【 国宝 】

金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つで、豊臣秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい・てい)の遺構とも伝えられています。
飛雲閣は三層からなる楼閣(ろうかく)建築で、第一層が入母屋(いりもや)と唐破風(からはふ)、第二層が軒唐破風(のきからはふ)、第三層は四注造(しちゅうづくり)とも呼ばれる寄棟造(よせむねづくり)形式です。
また、第一層は反り屋根を基本に、二・三層は起(むく)り屋根を基本とするなど、すべて異なる屋根形式を併せ持ち、左右非対照な絶妙なバランスで不規則ながら巧みに調和見せています。(非公開)

対面所(鴻の間) 【 国宝 】

203畳敷きの大広間。上下段の境の欄間(らんま)に雲中飛鴻の彫刻があるので「鴻の間」ともいいます。
上段の床には張良が四賢人を率いて恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれています。この障壁画は狩野派の渡辺了慶筆。華麗で重厚な趣が深い間です。
下段左右の襖絵(ふすまえ)と上段床の絵の絵の具にはすべて鉱物質が使われているため(金、銀、白は水晶、赤は珊瑚、緑は銅のサビ)、400年の年月を経た現在でも美しい色を残しています。(非公開)

雁の間【 国宝 】

襖と壁面には飛翔する雁の群れや水辺に遊ぶ雁を描いて、秋の風趣を表しています。また隣接する菊の間との間の欄間には雁を透し彫りにし、隣室の月が眺められます。

菊の間【 国宝 】

対面所の西に続く菊の間は、襖に濃彩で種々の垣根と秋花や菊を描いて、清楚で華麗な趣きが漂っています。

雀の間【 国宝 】

対面所の西にある雀の間には、竹林の中を活き活きと飛び回る雀が描かれていますが、68羽描かれたとされているのに実際は66羽。
あまりにも活きが良すぎて2羽抜け出したのでしょうか?  別名「抜け雀の間」とも呼ばれています。

白書院【 国宝 】

対面所の北裏にある賓客(ひんきゃく)を迎える正式の書院。
一の間、二の間、三の間からなります。一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分 かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に関する故事が描かれています。また、三の間は華麗な孔雀を描き、「孔雀の間」ともいわれています。 畳を取り除くと能が演ぜられるよう工夫されています。
書院は、桃山・江戸初期の書院造りの代表作で、 現在でも西本願寺の接待などで使われているそうです。
特に鴻の間は203畳の大広間で非常に豪華な書院造です。欄間の彫刻や狩野派の襖絵など、息を呑む見事さです。

黒書院【 国宝 】

黒書院は粗木を用いた私的な室で、歴代ご門主が寺務をとられた所。
一の間(門主室)二の間を中心に、茶室、鎖の間、広敷などがあります。幾何学絞様(きか がくもんよう)の欄間や、狩野探幽筆の襖・貼附の墨絵等は清楚な趣きを漂わせ、一の間の床・違棚の配置、釘隠の意匠にも特殊な考慮がなされています。江戸 初期の数奇屋(すきや)風代表的書院です。

北能舞台【 国宝 】

白書院前の北能舞台は、懸魚(げぎょ)に天正9年(1581)の 墨書紙片があり、日本最古の能舞台とされています。

南能舞台【 重文 】

対面所前の南能舞台は、現存する日本最大の能舞台で、 毎年5月21日の宗祖降誕会に祝賀能が演じられます。

経蔵【 重文 】

経蔵に納められている『大蔵経(一切経)』は天海僧正の開版されたもので、寛永12(1635)年、江戸の寛永寺で発起し、12ヵ年をかけて完成しました。
天海版または寛永版とも称されます。幕府の要請と本願寺第13代良如宗主の希望により慶安元(1648)年9月に銀27貫目で購入しました。

太鼓楼【 重文 】

本願寺の東北角にある重層の楼閣で、内部に今も残る大きな太鼓は、江戸時代には周囲に時刻を告げる合図となっていました。
幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が、今も残っていると伝えられえています。
境内の北東隅に建っている、一風変わった趣のある重層の楼閣建築です。
寺院内に時を知らせたり法要の合図をする、二つの太鼓がこの楼閣に吊るしてあったと云われます。

阿弥陀門【 重文 】

昭和期の阿弥陀堂修復事業を機縁とし、1983(昭和58)年、檜皮(ひわだ)の一部葺替、飾金具の修正、金箔押などの補修が行われ、創建当初の美しい姿が再現されました。
また、2009(平成21)年に御影堂門・築地塀修理の際にあわせて修復工事が行われました。

御影堂門【 重文 】

親鸞聖人600回大遠忌を前に、1859(安政6)年に大阪の講社(こうしゃ)が担当し修理。
1960(昭和35)年、親鸞聖人700回大遠忌を前に修理されました。また、2006(平成18)年から2009(平成21)年にかけて、親鸞聖人750回大遠忌を前に、築地塀と併せて石工事・屋根工事・金物工事などが実施されました。
屋根工事では瓦の葺き替えを実施し、再用する旧瓦は南面にまとめられています。

手水舎【 重文 】

破風板には錺金具を付けており、四周を開放し花崗岩の四半敷で中央に石製の井戸と水盤を据えています。軸部は方形礎盤に几帳面取角柱を立て、内法虹梁(うちのりこうりょう)で繋ぎ、柱頂部の舟肘木と内法虹梁上の蟇股(かえるまた)で受け、鏡天井を張っています。2010(平成22)年に修復されました。

総門【 重文 】

現在地までに三度移築されています。
一度目は蓮如上人450回忌の1898(明治31)年、二度目は親鸞聖人650回大遠忌を控えた1911(明治44)年。三度目は1959(昭和34)年に交通量の増加に対応した堀川通りの拡張が計画され、京都市の要請で現在地に移転しました。
虹梁(こうりょう)に大柄な二組の蟇股(かえるまた)を配しています。2011(平成23)年に修復されました。

本願寺伝道院【 重文 】

1895(明治28)年4月に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、東京帝国大学教授伊東忠太(いとうちゅうた)の設計、竹中工務店の施工により建築されたものです。
様々な使用を経た後に「浄土真宗本願寺派布教研究所」となり、1958(昭和33)年、あそか診療所として1階の諸室が改修され使用されました。
その後、「本願寺伝道院」となり僧侶の教化育成の道場として今日にいたっています。
親鸞聖人750回大遠忌宗門長期振興計画の一環として、2010(平成22)年から2011(平成23)年にかけて修復されました。

御成門【 重文 】

切妻造、本瓦葺の高麗門です。江戸後期の建築と言われています。

目隠塀【 重文 】

切妻造、本瓦葺、真壁造の塀です。江戸後期の建築と言われています。

築地塀【 重文 】

切妻造、本瓦葺の版築の塀で5本の定規筋が引かれています。江戸中期~後期の建築と言われています。

虎渓の庭【 特別名勝 】

中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られた江戸初期の枯山水庭園。 御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れています。